昭和42年4月1日 朝の御理解
信心する者は、何事にも信心になれよ、信心する者は、木の切り株に腰をおろしても、立つときには礼を云う心持ちになれよ。
信心をさして頂く者は、何事にも信心になれよ、この事だけには信心になるけれども、この事には信心ではない、という事は、何事にも信心になれと、信心するものは木の切り株に腰をおろしても、どの様な事柄の中にでも、立つ時には礼を云う心持ち。
いつも感謝の心を忘れるなと、こう教えておられます。例えばここに、原洋服店という洋服屋があります。それで、注文が参りました。どうぞいついつまでに洋服をこさえて下さいと、そこで、現在しておる仕事、注文受けておるその事、ある事をまあ思い、自分に出来る範囲内で、それは、出来ませんなら、出来ません。何日までは、どうでもかかりますと、まあこう云う、仕方がないからそれまでに仕上げて下さいと、承知しましたと、とその何日という約束の日までに、その洋服を仕上げさして頂くという事、この事が難しい事でしょうか。私は難しい事じゃないと思う。
それを例えは10日までに仕上げてくれと云うのを、10日にとても仕上がりそうにないけども、はいはい承知しました、と承知して、そして、10日になっても出来上がらん、やあやあ云うて向こうは催促がくる、明日は出来ます、明日は出来ますと、例えば云う様な事であったら、どう云う事になるでしょうか。もうあの洋服屋は信用は出来ん、という様な事になるのじゃないでしょうかね。
出来んものは、出来んという事、出来るのは、出来るという約束のもとに、その約束を違えずになしていく、私ゃ何事にも信心になれよと云う事は、そう云う事だと思うのです。
この世は徳の船に乗って渡れと、ほんとに天地のご守護と申しますか、天地の特別のご守護を受けていかなければ人間の幸せはございません、それを自由に自分で生き様とするところに、我情を云わなければなりません、我欲を云わなければなりません。
そこには、わが身は神徳の中に生かされてあるところの喜びまでは、とてもとても頂けません。人間の幸せはここに神様の、お恵みの中にお生かしのおかげを頂いて、おかげを被らせて貰うと、と、わが身は神徳の中に、きたわして頂いておる、神徳の中に生かされておる、天地の親神様のご守護が受け通しに受けての、実感というものがです、日々刻々の中におかげを頂いて、有り難しと云うその心があるから、信心するものは何事にも、信心にならなければならん事が判るのであると同時に、信心さして頂いておれば、木の切り株に腰をおろしても、立つ時には礼を云う心持ちが生まれて来るのである。
神恩報謝の生活が出来る、そういう私は生活を幸せな生活だとこう思うのです。信心するものは、何事にも信心になれよと、ただ今、原洋服屋さんの事を思って申しました。
お百姓はお百姓をされると云う事においてもいいのですよ、何事にも信心にならして貰う、それには矢張り、その作らして頂いておる作物なり、お野菜なりというものにですね、私は愛情が湧いてくるところまで、その仕事に本気で打ち込まなければいけないと思う。 昔の、今でもそうでしょうけれども、農家では、あの何と云うですかねぇ、何月何日という、あの田ぼめと云う言葉がございます、云われますですねぇ、田が青々と、見事に出来ます、よその畦くろをずっと回って、自分の田に、お酒をね、ほめて歩くのです。
素晴らしい事だと思いますねぇ、すべてのものに感謝をすると、自分の作らせて頂いておる、お野菜に、自分に作らせて頂いておるその作物にです、よう見事に出来た、昨日よりも今日、こんなに成長した、それこそ自分の受持ちであるところの農家なら農家のお仕事にたいしてです、愛情が感じられる。
そういう私は生活さして頂く為に成る程、そのお野菜ならお野菜がです、水を求めておる事が判る、虫が付いておれば、痛い、痒いと云うて居るその声が聞こえるくらいの所まで、私は信心を進めていかなければいけないと思う。
さあ、虫がついとろうが、草が生えとろうが、水を求めておろうが、ほけーんごとしとる、これでは、私は、その作物に対する愛情なんかは云われない、愛情持たせて頂くところに、あぁ今、水を欲している事が判る、今、肥料を求めている事が判る、今、虫が付いて、痛い痒い思いをしている事が判る、もし気が付かなかったら、いやあ、すまんすまん痛かったろう、痒かったろうと、例えば虫を取ってやる様な気持ち、そこにです、もう明日でよかよかと云った様な、投げやりの仕事ではなくてです、それこそもう草でも生えてから取るのじゃない、もう生える前に綺麗にさして頂くと云うか、いわゆる草が生える暇がないと云う様な、私はお百姓さんであっておれば、ほんとにお道の信心を頂いておるお百姓さんであると思います。
追われに追われておる、いつうも仕事から追われておる、それは、洋服屋さんじゃないけれども、出来もせんのに、出来る様に云って、注文取っておるから、追われなければならん、もう実意を欠いでおるからなんです。
朝、目がさめる、おかげで目がさめました、と云うたら、あと次は、ちょっと顔を洗わして頂かなければいけない、それに、目はさめてるけれども、妻は寝床の中に居る、顔も洗わん、御飯ですようと云われてから、顔も洗わんなり、手も洗わんなり、御飯食べる、例えばそう云う様なもう始めから、乱れた生活の中に、おかげが正確なおかげになって来るは筈がない。
手紙が来ておった。早速それに対する返事を書かなければならない、もうあすこに返事を出さんならんばってん、と、1日延ばし、2日延ばし、いつも自分の心にひっかかっておる、しまいには、もうとうとう、あんまり遅うなったから、手紙も出さん、あの人は礼儀をわきまえない人だと、手紙も出さん、返事も来んと、と、例えば、そうした悪口を云われなければならない、と云った様な事が、あの人は信心しておるのにどうして、あんな事を云うたりしたりするじゃろうかと云うのが、そう云うところから起きて来るのじゃなかろうか。
そん時、そん時にいわゆる、信心さして頂くものは、当たり前の事を当たり前にさしていく事の、それをしかも、信心、それを修行と頂く事なんです、難しい事をする事じゃない、当たり前の事を当たり前に成していく、そこに自分の気持ちの中に、1日なら一日終わらして頂く時にです、今日一日のご用さして頂いた事に対するところの喜び、例えば、お百姓さんならば、野菜から、作物から、お礼を云われる様な気持ちがです、私どもの心の中に、はー、今日も一日お使い回しを頂いてよかったという事になるのであり、
自分の出来る範囲内の仕事をです、矢張り、5つしなければならんなら、5つ、きちっとなしおえた時に始めてです、今日もご用さして頂いて有り難いという事になっていくのであり、矢張り、正確に注文の日にちに、それを納品する事が出来るのである、で、あの店は正確だ、という事になるのじゃないでしょうか。
神様のご信用も、又同じ事、私どもが生きて行くという事に、誠実である、確実である、あの氏子は間違いがないという、神様のご信用を受けるところからです、間違いのない正確なおかげが頂けて来る様になると思うのです。
拝むこつだけは、そうな拝まっしゃるけれども、もう家庭生活は乱れておると云う様な事では、お道の信心にはなりません。それも何か難しい事をしなけりゃならんというのではない、目が覚めたら、顔を洗う、顔を洗うたら、御飯を頂く、御飯を頂いたら、その日の第一歩の仕事という仕事に忠実になる。
云うなれば、手紙が来ていれば、手紙に対する、返事を書く、それだけの事なんです、いわゆる、当たり前の事を当たり前に、それをたんたんとしてやって行けれるところに、心にひっかかるものがない、はぁー、返事を書かにゃんばってんがと云うて、だらーっ、堕落しておると云うか、不精しておるところに、いつまでも心にひっかかるものがある。
心にひっかかるという事がです、おかげがそう云うところにひっかかって来るのです、おかげのスムーズさがなくなるのです、そこに、私は、真に有り難いというか、信心さして頂くものの有り難さ、いわゆる何事にでも、いわゆる、木の切り株に腰を下ろしても、立つ時には礼を云う心持ちが、いつも自分の心の中にあるのである。
ただ、木の切り株に腰をおろしても、立つ時には礼を云う心持ちになれよと仰有るから、つとめにつとめてです、さあ、バスに乗ってから、バスを拝む、履いて来た下駄にも拝む、着せて貰う着物にも、帯にも、布団にも、枕にも、お礼を云わんならん、何にでもお礼を云わんならん、だから、そういう一生懸命つとめるという事はです、なかなか難しい事なんです。
先日、ある方が、先生がああ云われたから、乗ってる自転車にお礼云おうと、上がってから思い出す。心に気つけときながら、忘れる、まず心にその有り難いというものがないからなんです、心に気つけておっても、始めにお礼云わんならんと思いよっても、思いながら来よっても、おりる時にちゃんと忘れて上がって来た。
それは、自分の心の中に有り難いと云うものが無いからなんです、もう乗っとう時すでに有り難いというものがです、もうこげなこっちゃ有難うしてならん、と云う心があれば忘れる事はないんです、その度に、私どもは当たり前の事は当たり前に、信心さして頂くものは何事にも信心になれよ、と云うところをです、本気で取り組んでいかなければならない。
今日は皆さん、そこんところを本気で取り組んでご覧なさい。きっと良い体験が生まれますよ、成る程、当たり前の事を当たり前になさして貰うという事、そう云ういわば、忠実な生き方、生活の、正確な生き方、そこから、心の中にいつも安らぎがある、それが神様の喜びのしるしに心の中にたえず、心の中に喜びを感じ、その喜びを感じておる。
いつも感じておるから、いつも何にでも、どう云う事にでも、木の切り株にでも腰をおろしては、立つ時には礼を云う心持ちがおのずと、忘れようとして、忘れぬここにあるものだと、そこにほんとの神恩報謝の生活というものが、出来るのではないでしょうか。
その神恩報謝の生活、そのことの中にです、神様も又、いわゆる、洋服屋さんが、正確に邁進する事に、あの洋服屋は間違いが無いと云う事になって来ると同じ様に、あの氏子は間違いがないと云う神様の、愈々ご信用、云うなら、御神徳が身について来るのです。
この世は徳の船に乗って渡らなければ幸せはない、天地の特別のご守護、お守りを受けなければ、わが身は神徳の中に生かされてある喜びは得られない。
どうぞ、私どもは、当たり前の事を当たり前になしていない、精進と云えばそう云う事に精進する事だと私は思うです、信心とは。
今日は特にその事に今朝からその事を頂くのです、私自身もなかなかだらしがないもんですから、そこんところをよく乱します。乱したら、心が乱れる丈じゃなくて、おかげの方が乱れてきます。
ですから、自分の心の中に正確なおかげ頂きたいと思うなら、思うほどに、ピシャッとしたおかげ頂きたいと思うなら、矢張り、きちっとした信心をなさなければならん。
それが拝み参りと云う事ではなくて、生活の上においてです、当たり前の事を当たり前になして行くところの生活が、私は大事じゃないかという風に思うのです。 どうぞ。